高齢者がピンピンコロリを理想とするならば、治療選択のために知っておくべき基礎知識があります。
それでは、授業開始です。
理想の最期はどんな最期?と聞くと、多くの方が
「ピンピンコロリがいいな」
「延命治療は要らない」と
おっしゃいます。
「ピンピンコロリ」を調べてみると、最期まで元気で、介護要らずに、ポックリと最期を迎えるということらしいです。実は厳格な定義はありません。
ピンピンコロリに託す思いは人それぞれだと思いますが、実際にどんなことを意味しているのか、確認してみましょう。
典型的な心臓突然死を例に考えてみましょう。
心臓発作で瞬間的に意識を失ってしまい、そのまま亡くなってしまう場合です。生還した人に聞いても全く苦しくなかったということなので、本当に苦痛はないようです。
病院に搬送されて、救命処置をしても救命できなかったとき、本人は苦しまずに逝けるのでしょうが、突然やってくる別れに家族は戸惑い心の傷となり残るのです。
自宅で倒れているところを発見された場合は、警察官が来て検死が始まります。事件性がないか事情聴取が始まり、遺体は証拠物件として警察で保管されます。まるで殺人現場のように、痛ましい思い出が家族に残ります。
痛ましい最期は、家族の心の傷になるのです。
この話をしても、「それで良い」と言う人もいれば、「こんなピンピンコロリ」はダメだと言う人もいます。
なんとなく「ピンピンコロリ」という言葉を使っていましたが、その意味が人によって違うのです。
実は、ピンピンころりを妨げていいるのは、医療です。亡くなる時に全ての医療がいらないわけではありませんが、過剰な医療が本人を苦しめてしまうことが少なくありません。
治療を受けても元気に生活を送れるようになるわけではない時、その医療が本当に必要か考え直すことが全ての始まりです。
がんは痛いし苦しむと思っている人は少なくありません。しかし、実際はモルヒネなどで痛みはほとんど取れます。最期の1−2ヶ月で急速に体力がなくなるので、介護期間も限定しています。実はピンピンコロリと逝く一つの方法なのです。
肺や心臓疾患の場合は、数ヶ月から数年かけて徐々に生活能力は低下して行きます。肺炎などで急に重症化して入院をしますが、最後まで回復する可能性が残っているので、気がつけば延命治療を行っていることになるのです。
脳卒中の場合は、最初の発作で生活能力が一気に下がります。そしてその後も入退院を繰り返します。入院までの期間は次第に短くなり、逆に入院期間は延びて行き、最期を迎えます。
やはり最期まで回復する可能性がのこっているので、延命治療の末に亡くなる場合が多くなります。
老衰や認知症の場合は、更に長い期間をかけながら徐々に衰弱して行きます。体調を崩して入院しても、点滴を抜いたりしてしまうため手足を縛られながら治療を続け、治療の末に最期を迎えることになります。
がん以外の病気は最期まで回復する可能性が残っている為に終末期だと判断するタイミング遅くなってしまう。そのときは既に本人は会話できないので、延命治療の是非は家族にゆだねられますが、その重責を負えずに辛い思いをしている家族がたくさんいるのです。
延命治療とよばれる処置をしないという重い決断をすることが家族にゆだねられて良いのでしょうか?
「素人だから解らない」と判断を医者に任せるのではなく、少し考えて欲しいのです。自分の最期を考えることで家族が苦悩から解放されるのです。
最近になって「医療拒否」という言葉を耳にするようになりました。良く本も売れているようですが、著者によって考えかたもずいぶん幅があるようです。
延命治療と呼ばれる処置のなかで次の4つを考えて欲しいのです。
胃ろう、人工呼吸機、抑制、点滴についてです。
厚生省が発表した「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」というガイドラインがあります。治療方針決定に際して一番大切なのは、本人の考えだとされており、こうした医療拒否は妥当だとされています。
(人生の最終段階とは、すぐに亡くなってしまう訳ではないが、近い将来亡くなることが予想される状態を指しています)
延命治療とは治療してもわずかにしか寿命を延ばさない治療と考えられています。
実は延命治療は要らないと言っても、医療現場で反映されないことがとても多いのです。
それは延命治療の意味があいまいだからなのです。
胃ろうとは、お腹の表面から胃に向けてチューブを通す処置のことです。
このチューブから栄養剤を注入すれば口から食べられなくても栄養を摂ることができるのです。
胃ろうは延命治療なのでしょうか?
例えば脳卒中で口から食事を摂れなくなった人が胃ろう処置を受ければ、長期間生存することが可能になるのです。
つまり胃ろうとは必ずしも延命治療ではないのです。
胃ろうなんて要らないと思うかもしれませんが、終末期状態にない人が胃ろうを断るということは、「口から食べられなくなった時は、自分が最期を迎える時だ」と意思表明したことになります。
人工呼吸機は延命治療だと思っている人は少なくありません。しかし、人工呼吸機というものはそもそも救命治療のために用いられる処置なのです。
酸素マスクで酸素を吸っているだけでは不十分なときに機械の力を借りて呼吸をするのが人工呼吸機です。
がん治療の最後に人工呼吸機をつかっても延命治療にしかならないことは確かだと思います。
もともとの病気が良くなる訳ではないので、その効果も期待できません。
この場合は確かに延命治療です。
けれども、非がん疾患の場合は、人工呼吸機を一時的に装着して見事に回復することが期待できるのです。
ですから、延命治療は要らないと言っても人工呼吸機を使わないという意味にはならないのです。
終末期状態にない人が人工呼吸機を使わないで良いと言う場合は、
「助かる可能性が少なくなっても構わないから一時的であれ機械につながれてまで生きる必要はないと思う」と意思表明したことになります。
点滴で問題なのはもう助からないと解りながら点滴をやめることが難しいことです。
また、老人が入院すると混乱して点滴を抜いてしまうことがよくあります。そのため手足を縛りながら点滴をすることになってしまいますが、本当に必要な治療なのか考えさせられます。
がんの場合、がんが治ることを期待できない状況で単に水分補給をする意味で点滴することは延命治療になります。点滴もしないということに抵抗がある人が多いのですが、口からわずかにでも水分をとるだけで本人の苦痛が摂れることがほとんどです。
点滴は延命治療の対象とはなかなか考えられない場合がほとんどです。けれども、点滴をすることで失われることもあることを覚えておいて欲しいのです。
それは最期の言葉を交わすタイミングが計れなくなるということです。
点滴を続けているといつ最期を迎えるのか判断が難しくなります。24時間家族が付きっ切りになることも難しく、独りで最期を迎えることになります。既に意識はなく、モニターの波形を見ながら、最期だと判断される。機械的な最期になってしまうのです。
点滴を一切しないという判断は、難しいと思います。でも、もう充分に生きて出来るだけ自然に逝きたいと思うならそれもありだと思います。
抑制とは手足を縛ることです。
病院では治療のために手足を縛ることが良くあります。人権侵害なのですが、代わりに家族が24時間付き添うことも無理なので日常化しているのです。
私たちは命のために生きているのでしょうか?命が大切なのは当たり前ですが、本人を無視して手足を縛りながら治療を続ける意義が見えないことが多々あります。本人の寿命よりも、本人の心を大切にする判断も間違いではないのです。
将来の医療処置について考えることは自分の最期を決めることです。自分らしくありたいという希望を実現するためであり、家族に重責を担わせることを回避するためでもあるのです。
がん以外でもピンピンコロリは実現できるのです。
濃厚な医療が一番よいと考える人、苦痛がないのが一番と考える人、人それぞれです。誰かが間違っているわけではないけれど、大切なのは本人の意向に沿うことだと思います。担当医の意向ではなく、自分の考えを治療に反映させて欲しいと思います。
人生は理不尽なことばかりです。それに文句を言ってもはじまりません。
せめて最期まで自分の考えを追及できることが一つの救いになるのだと思います。一生懸命に生きたということが本人、家族の慰めになるのです。