病院は、治療をする施設です。そのために治療を前提として全てが進みます。「治療」という見えないレールが敷かれていて、そのレールの上で話が進み、なかなかそのレールから離れることが難しいのです。元の元気な体になれるのであれば、頑張れるのでしょうが、そういう状況にない人たちにとっては、治療というものが、単純に希望と映らなくなります。
例えば、
重い後遺症を患っている人達、
慢性的な症状で快適に生活を送れない人達、
最期を迎えようとしている人達です。
もちろん人によって考えは違いますが、入院治療によってかえって辛い状況に追いやられてしまうのです。
それは、
家族がそばに居にくいということ(愛猫、愛犬にも会えない)
安心できる自宅という ”自分の居場所” から切り離されること
治療が優先されて、本人の気持ちが二の次となってしまうこと
(治療をするために手足を縛られてしまうこともあります)
担当医の意向により治療のありかたが左右されてしまうこと
延命という囁きに、治療を断ることが難しいということ
誰だって生き続けていたいと思っています。
けれども、後遺症や慢性的な症状が重くなっていくと、
治療を受けることに希望を見いだせなくなることがあるのです。
命を軽んじているわけではありません。
何が良いのかは、本人しか選択できない問題なのです。
その答えを一緒に考えて、一緒に実践する。
そういう医療が必要だと考えて訪問診療にたどりつきました。
そしてそのために、医療を実施するだけではなく、患者さんや家族との対話が必要だと考えています。
病状に合わせて薬を処方しますが、それだけでは外来診療を自宅でしているのと変わりません。通院困難な病気や障害を抱えている人たちは、薬を服用しても元の体には戻れません。それに付随して、さまざまな問題を抱えています。その問題について、一緒に考える存在であることを大切にしています。
困難な病気や障害とともに生きる人の気持ちや考えを聴くことを大切にしています。自分自身の過去の経験や携わってきた患者さんとのやりとり、それでも補えない場合は想像力を働かせて、本人の身になって考えます。(大丈夫だとか、頑張れなどという空虚な言葉は使いません。おそらく一番使ってはいけない言葉なのだと思います)
そういう努力をしながら、この人たちは解ってくれている、自分の力になろうとしていると思ってもらえることが、私たちが側にいる意味なのだと思っています。
生きがいとは、大きな夢を実現するという意味ではなく、今を生きる自分を支えてくれる価値を指しています。病気という困難と直面したとき、人は自分を振り返ります。生きる意味を模索し、自分を支えてくれる価値を再発見するのです。人との絆であったり、住み慣れた我が家にいることであったり、食事を美味しく食べられたり、音やにおいを感じていきていることを実感できるようなことです。
単に生きているということよりも大切な意味を認識してもらい、一緒にそれを守りたいのです。
身体的苦痛の多くは薬で対処することが出来ます。けれども、不治の病を煩う人たちの精神的苦痛は薬では対処しきれません。この苦痛によりそうことも自分達の役目だと考えています。そのために私たちは話を聴くことをとても大切にしています。当たり前のことなのですが、実はとても難しいことです。気持ちを受け止めることが全ての始まりなのだと思います。
カナミックネットワークというインターネット上のネットワークを利用して、本人や家族、ケアマネージャー、訪問看護ステーション、訪問調剤薬局などとつながり、情報の共有や治療方針の決定に役立てています。
医者が病気をどう見立ているか情報を共有するだけでなく、その現状ふまえて患者さんがどう考え、どういう治療を望んでいるのかを共有します。本人の考えに沿って治療が進むことが大切なのです。
患者さんの気持ちだけでなく、家族の気持ちも同じくらい大切だと考えています。対話をしながら、みんなが納得できる診療を目指しています。
寿命を延ばしたり、障害を残さずに元気になれる治療は、誰もが望む理想の医療です。けれども、医療にも限界があります。障害が残ったり、現代の医療では克服できない病気とともに生きている人にとっては、毎日を少しでも苦痛なく生きられることが何よりも大切なことなのです。アルコールやたばこは、体に害になることが多いですが、本人にとって大切なことであれば、あえて止めることはしません。
糖尿病で食事制限が難しければ、できる範囲でかまわないのです。
残された時間がそう長くない人たちにとって、好きなように生きること以上に大切なことなんてそうはありません。
たった一度の人生です。
好きなように生きて、笑ってこの世を去って欲しいと思います。
そのために医療を活用しています。
痛みをコントロールするために麻薬を使うことがよくあります。流量の設定だけでなく、痛みが出た時にボタンを押すことで追加して薬を入れることができる携帯型精密輸液ポンプを複数台所有しています。(CADD-Legacyポンプ)薬局などから借りることもできますが、とっさに使えるように診療所で所有しています。このポンプを使えば、痛みをとるための治療は病院と変わらない精度で治療ができます。間違って多く薬が入らないように設定することもでき、安心して自宅で過ごすために欠かせない機器です。「痛みがない」「痛みに対しての不安がない」ということは、穏やかな生活のために欠かせないのです。
病院は病気を管理する義務があるために、本人の気持ちよりも病状管理を優先することが少なくありません。
けれども在宅においては、その管理から逃れることが出来ます。病気と言うリスクを抱えながらも、好きなように生活できるのです。
管理下におかれない不安があることは否めません。その不安を安心に変えられるように私たちや訪問看護師、薬剤師、ケアマネージャーとともに支えていきます。
自分が生きたいように生きられるという自由は、当たり前と考えている人が多いと思います。けれども、体が不自由になると、自分一人ではできないことが出てきます。そうした場合、誰かに介護してもらう必要があります。介護者がいないと成立しないのです。
誰だって人の世話を受けながらの生活なんてしたくなんてありませんし、無理を言って介護してもらうほど切ないこともありません。そんなときに喜んで力を貸してくれる人、一緒に生きてくれる人が一人いるかいないかで、生活は左右されます。
当たり前の自由であるということは、実は大きな意味があるのです。(大切なことほど失わないとわからないものですよね...)
このシンボルマークは「いつも心に太陽を!」というイメージで井上百合子@武蔵野美術大学さんに作ってもらいました。どんな辛い状況でも、こころに太陽を描き、生きて行けると信じています。
心の中の太陽とは、生きる意味なのではないかと思います。普段気がつかない生活の中に、生きる意味はたくさんあるものだと思います。ただ、当たり前すぎて気がつかないだけなのではないでしょうか? そんな話を患者さんとすることが自分たちの役割なのだと思います。
患者さんと家族と医療者で手を取り合って困難に立ち向かっていくというイメージでコグレ シゲル氏(院長の弟)に書いてもらいました。太陽に向かって歩くと、どうしても宗教画のようになってしまうので、いかに悲壮感なく、楽しげに描けるかがポイントなのだそうです。影を足したのは院長の案ですが、とても気に入っています。